石井ゴシックとは
石井ゴシックは、邦文写真植字機の共同発明者であり写研の創業者でもある石井茂吉が原字を書いたゴシック体です。原型となるゴシック体が完成したのは1932年。石井明朝の原型(1933年)より一年早く、写研の書体の歴史はむしろゴシック体から始まったといえます。写植の時代を通じて細から特太までのファミリーに育ち、2024年にモリサワがOpenTypeフォント「石井ゴシック」(L/R/M/B/EBの5ウエイト)として改刻復刻しました。縦画の打ち込みやストロークの抑揚に手書きの気配を残す、オールドスタイルのゴシック体です。
誕生の背景
石井茂吉は邦文写真植字機の共同発明者であり、写研の創業者です。しかし機械だけでは印刷はできません。日常の印刷物の組版は明朝体一書体では成り立たない——マイナビニュースの連載記事によれば、石井茂吉はそう考えて、明朝体の改良と同時にゴシック体と楷書体の原字制作に着手しました。
このゴシック体と楷書体は明朝体より一足早く1932年(昭和7年)に完成し、同年春の第4回発明博覧会のパンフレットに書体見本として使われました。約5,000字の明朝体が完成するのは翌1933年です。写研アーカイブでも「石井太ゴシック」の発売年は1932年と記録されており、この書体が写研のゴシック体の起点になりました。
ファミリーの展開は数十年がかりでした。アーカイブで確認できる範囲でも、石井細ゴシック(1937年)、石井中ゴシック小がな(1954年)、石井特太ゴシック小がな(1961年)、石井中太ゴシック小がな(1970年)と、戦前から高度成長期にかけて太さとかなの組み合わせが少しずつ増えていきます。一人の設計から始まった書体が、写植の普及とともに体系へ育っていった過程が、発売年の並びから読み取れます。
設計の意図
石井茂吉のゴシック体は、当時の活字のゴシック体とは線の考え方が違いました。前出のマイナビニュースの連載記事は、縦線・横線とも始筆部と終筆部を太く、線の中間部をやや細くして、輪郭がゆるやかな曲線になるように描かれていたと伝えています。幾何学的な均質さではなく、人の手で描いたあたたかみ、筆書きのやわらかさを取り入れる。この姿勢は、石井明朝と共通する石井書体の思想です。
2024年の改刻でも、この性格は意識的に引き継がれました。モリサワの開発プロジェクト記事によれば、改刻版の漢字は本文から見出しまでの汎用性を考えて石井中ゴシックの骨格をベースにし、かなは石井太ゴシックを土台にしつつ、細いウエイトには本文で使いやすいよう石井中ゴシックの要素を取り入れています。開発チームは「縦画や横画のストロークは完全な直線に見えるところをなるべく無くすように調整しています」と述べており、直線に見えて直線ではない、という石井ゴシックらしさが現代の設計でも守られています。現在のモリサワ公式の書体見本ページは、この書体を「縦画の打ち込みやストロークの抑揚、伸びやかなはらいがクラシックさを感じさせ」るオールドスタイルのゴシック体と位置づけています。
どこで使われているか
写植の時代、石井ゴシックのファミリーは本文用ゴシックの定番として使われました。公式に確認できる例では、絵本『わたしのワンピース』(にしまきかやこ、こぐま社、1969年初版)の本文に石井中ゴシック(小がな)が使われています。
書体史の上で興味深いのは、1970年の第1回石井賞創作タイプフェイスコンテストの逸話です。写研公式サイトの対談によれば、応募者向けの字種リストは石井太ゴシックで印字されており、このコンテストでナールを生む中村征宏氏は、そのリストの文字に影響を受けたと振り返っています。スタンダードな形ゆえに、次の世代の書体づくりの手本にもなっていたわけです。
復刻後の採用例も現れています。国際芸術祭「あいち2025」では、ロゴタイプとタイプセットの和文に石井ゴシックが選ばれました。タイプセットを担当したデザイナーの加納大輔氏は、モリサワのインタビューで「造形的な相性のみではなく、一度失われかけた書体が再びデジタルで復刻したという歴史的な文脈をふまえて選びました」と語っています。また、復刻からまもなく自身のWebサイトの本文書体に採用するデザイナーも現れており、字面の小ささからくる軽やかな読みやすさを評価する声があります。