ナールとは
ナールは、1972年に写研から発売された和文丸ゴシック体です。正方形の字面いっぱいに描かれた大きな文字と広いふところを持ち、字間を詰める作業をしなくても美しく並ぶように設計されました。デザイナー・中村征宏氏のデビュー作であり、道路の案内標識をはじめ街の風景に溶け込んだのち、写植システムの衰退とともに姿を消し、2024年に一部が現代のフォントとして復刻された書体です。
誕生の背景
始まりは一枚の募集広告でした。1969年10月頃、仕事の関係者からデザイン誌『アイデア』に載った「石井賞創作タイプフェイスコンテスト」の広告を勧められた中村氏は、締め切りまで約3ヶ月という条件で応募を決めます。当時の中村氏は書体デザイナーではなく、テレビ局のテロップやタイトルの文字を書く仕事をしていました。
1970年1月末に締め切られた第1回コンテストには118点が集まり、中村氏の応募作「細丸ゴシック」——のちのナール——が1位に選ばれます。結果を知らせる電話があったのは1970年4月1日。同年5月18日に東京の大日本インキビルで表彰式が行われ、7月から写植書体としての制作が始まりました。
制作は平坦ではありませんでした。当初は若いスタッフ2人とともに3人で原字を書き始めたものの、線の太さや角の丸め方に微妙なばらつきが生じたため、中村氏はそれまでの仕事をすべて断り、1人で書く体制に切り替えます。ペースは1ヶ月に400〜450字。途中、写研から「字形が変わってきている」と指摘を受けて約1,000字を書き直す出来事もありました。以後、自作のナール8字の見本を常に机上に置き、見比べながら書き進める方法に改めたといいます。こうしてナールは1972年に発売されました。
設計の意図
ナールの発想の原点は、書体の美学ではなく、日々の作業の負担にありました。写植の版下制作では、文字と文字の間を1字ずつ詰める「字詰め」に膨大な手間がかかります。中村氏はここに着目し、「詰めなくても良い文字が作れないものか」(写研100周年サイトの本人エッセイより)と考えました。詰めずに使うためには、1字が正方形のほぼいっぱいに大きくなければならない。字間そのものを主体にした設計です。
その答えが、大きな字面と広いふところ(文字の内側の空白)を持つ丸ゴシックでした。明朝体や手書き文字が主流だった時代に、極細のウエイトと幾何学的な骨格を持つナールは「新しい書体」として受け止められたと、マイナビニュースの書体設計士・橋本和夫に聞くは評しています。写研で長く書体設計に携わった橋本和夫氏も、活字書体に慣れた者には思いもよらない、既成概念を塗り替えるデザインだったと振り返っています。当時流行していた丸文字の時代の空気とも響き合いました。一方で中村氏自身は、テロップの現場で書き慣れていた文字の形が自然にナールの字形に表れたとも語っており、道具としての合理性と手の記憶が重なったところにこの書体は生まれています。
ファミリーは1972年の最細のナールを起点に、1973年のD、1975年のL・M・O、1977年のE、その後のSH・OS・DB・U・Hまで、写研アーカイブで確認できるだけで11ウエイトに広がりました。DとEは新たに原字を起こすのではなく、Dは元のナールを、EはそのDを印画紙に薄く焼き付けて線を太らせる方法で作られています。なお、L・M・Oの3ウエイトは中村氏本人ではなく写研の社内で制作されたことが、橋本氏の証言から確認できます。
どこで使われているか
ナールがもっとも広く知られる使用例は、一般道路の案内標識です。道路標識業の全国団体・関東支部が実務基準としてまとめた「道路案内標識文字の表示基準(案)」は、一般道路の案内標識の文字にナールD(白色表示)とナールDB(青・黒色表示)を用いると明記しています。採用理由として挙げられているのは、字面が大きくふところが広いため文字が明るく並びがよいこと、余分な飾りがなく見えやすいこと、そして従来の丸ゴシック体に対して新鮮な感覚を持ち都市景観に調和すること。書体の設計思想が、そのまま公共空間での実用性として評価されたかたちです。「建設省が1986年に標準書体として指定した」と語られることも多いのですが、国自身の公式文書でこの指定を確認できる資料は見つかっていません。
同基準はまた、ナールがテレビのテロップや看板、駅名標に広く用いられ、市民の身近なものになっていると記しています。阪急電鉄の駅名標に長く使われていたという話も鉄道メディアの取材記事などで知られていますが、こちらは事業者自身による公式な発表は確認されていません。
そしてナールを語るとき、同じ中村氏が手がけたゴナの存在は欠かせません。ナールの成功がゴナ誕生のきっかけになったと語られることもありますが、本人のエッセイや対談にその因果関係を直接裏付ける記述はなく、確かなのは、一人のデザイナーが1972年前後という近接した時期に、時代を代表する2つの書体を続けて手がけたという事実です。
