石井明朝とは
石井明朝は、邦文写真植字機の発明者であり写研の創業者でもある石井茂吉が、自らの手で原字を書いた明朝体です。写真植字(写植)という技術そのものを生んだ人物が、その技術に載せる文字までを自分で設計した——書体としての完成度以前に、写植の歴史がそのまま刻まれた一書体だといえます。戦前に原型が作られ、1950年代以降に写植文字盤として整備・展開されたのち、2024年にモリサワによってOpenTypeフォントとして復刻されました。
誕生の背景
石井茂吉は、森澤信夫とともに1924年7月24日に邦文写真植字機の特許を出願し、1926年に試作第2号機、1929年に実用機を完成させて印刷会社への納入を始めた人物です。写植機がなしうることは「活字を使わない印刷」という技術の変化にとどまらず、文字のデザインを豊かにすることで日本語の表現そのものを広げられる——写研公式サイトに寄せられた雪朱里氏のエッセイは、石井茂吉がそこに気づいていたと伝えています。
明朝体そのものの完成度を高める作業も、機械の開発と並行して進みました。マイナビニュースの連載記事によれば、石井茂吉は当時広く使われていた築地活版の12ポイント明朝体について、縦の線が太く横の線が細いという比率に疑問を持ち、横線を太くして起筆部に打ち込みを加える改良を重ねます。約3年の開発期間を経て1933年、約5,000字からなる明朝体が完成しました。この戦前の原型と、写研アーカイブが発売年を管理する後年の各文字盤との対応関係を一次資料で確認することはできませんでしたが、写植文字盤としての「石井細明朝 LM-NKL」は1955年に発売されたことがアーカイブで確認できます。太明朝(1959年)、中明朝(1970年)と続き、ファミリーは段階的に育っていきました。
なかでも語り継がれているのが、大修館書店『大漢和辞典』のための原字制作です。写研で石井茂吉に直接指導を受けた元書体設計士・橋本和夫氏は、写研公式サイトの対談で「5万字書いたという、諸橋大漢和辞典のための明朝」と振り返ります。原字の大きさは一般的な48mmではなく17.55mmというごく小さいもので、石井茂吉はルーペをのぞきながらつけペンで印画紙に文字を書き、手作りの修整刀で削って仕上げていたといいます。同席した書体デザイナー・中村征宏氏は実際の原盤を見て「このハライの先端の細い部分。自分だったら、こんなのを書けるとは思えません」と評しました。石井茂吉はこの功績により1960年に第8回菊池寛賞を受賞し、同年『大漢和辞典』全13巻の刊行が完了しています。
設計の意図
橋本和夫氏は写研公式サイトのエッセイで、石井茂吉の文字への評価基準を「字形は手足が伸び勢いのある文字、文字を構成する筆法(エレメント)は幾何学的に描いたのではなく、毛筆風で優雅な味わいを持つ」ことだったと証言しています。幾何学的な整合性よりも、手で書いた勢いや呼吸を残すことを重んじる姿勢がうかがえます。
モリサワの公式書体見本ページも、石井明朝を「しなやかな骨格を持った漢字と毛筆楷書の雰囲気を含むかなが、優美さと端正さを感じさせます」と紹介しています。落ち着いた印象の本文組を中心に、広く使えるスタンダードな明朝体ファミリーというのが、現在のモリサワによる位置づけです。橋本氏は別のエッセイで、石井書体全般について「小さい文字に特徴はあるが、拡大した文字には書体特徴の真価が発揮される」とも述べており、写植の版面で小さく組まれることの多かった明朝体に、拡大しても崩れない骨格を与えようとした意図が読み取れます。
どこで使われているか
もっとも確かな使用実績は、先に触れた大修館書店『大漢和辞典』(全13巻、1960年刊行完了)です。石井茂吉が独力で書き上げた約5万字の原字が、そのまま本文に使われました。
それ以外の具体的な出版物名を挙げた公式な使用実績の発表は、今回の調査では見当たりませんでした。冊子印刷会社のブログ記事は、1980年代の書籍などのページものの組版で石井明朝への支持がきわめて強かったという趣旨を述べていますが、これは事業者自身による観察であり、具体的な出版社名や部数を伴う一次資料ではありません。石井明朝が長く写植の明朝体の定番として親しまれてきたことは確かですが、個別の使用例については公式な裏付けの少ない領域だといえます。