Gill Sansとは
Gill Sansは、彫刻家であり文字職人でもあった英国のエリック・ギルが設計し、Monotypeが1928年から1930年にかけて発売した欧文サンセリフ体です。幾何学的な整いと、ローマ碑文や古典セリフ体に根ざしたプロポーションをあわせ持つヒューマニスト・サンセリフ(人間の手の感覚を残したサンセリフ)の代表格で、鉄道の駅名標からペンギン・ブックスの表紙、BBCのロゴまで、20世紀英国の公共と出版を支え続けてきました。現在はmacOSとWindowsの双方に標準搭載されており、手元ですぐ試せる古典サンセリフのひとつです。
誕生の背景
始まりは、一枚の看板でした。1926年、ブリストルで書店を開いた若き出版人ダグラス・クレバードンが、友人のギルに店先の看板を依頼します。ギルがサンセリフの大文字で描いたその文字を、Monotypeの印刷史家スタンリー・モリソンが目に留め、書体ファミリーとしての開発をギルに委嘱した——というのが、広く語られている誕生の経緯です。Eye Magazine誌の解説によれば、まず1928年に大文字のみのGill Sans Titlingが発売され、1930年に小文字を備えたローマン体とイタリック体が、1936年には極太のUltra Boldが加わりました。
ギルの文字の素地には、師との縁があります。ギルはロンドンの美術学校でエドワード・ジョンストン——ロンドン地下鉄の専用書体を手がけたカリグラフィの大家——に学び、一時期は同じ下宿で暮らし、地下鉄書体の開発初期には協力もしていたと伝えられています。Gill Sansの骨格がジョンストンの地下鉄書体を土台にしていることは、Monotype自身も認める系譜です。
設計の意図
モリソンがギルに書体化を委ねた背景には、当時ドイツで相次いで登場したErbar、Futura、Kabelといった幾何学サンセリフへの対抗があったと伝えられています。しかしGill Sansは、コンパスと定規の書体にはなりませんでした。MyFontsの公式解説は、Gill Sansを「幾何学的な要素を構造の一部に持つヒューマニスト・サンセリフ」であり「まぎれもなく英国的な佇まいを持つ」書体だと説明しています。大文字「O」はほぼ正円、「M」は正方形に基づく一方、大文字のプロポーションはローマの碑文に、小文字はCaslonのような伝統的なセリフ体に根ざしています。「a」と「g」が筆記の名残をとどめた2階建ての字形であることも、Futuraとの決定的な違いです。裾が外へ開いた「R」と、眼鏡のような「g」。この2つは今もGill Sansの署名として語られます。
ジョンストンの書体との近さは、当時から指摘されていました。地下鉄書体を委嘱した張本人であるフランク・ピックは、Gill Sansをジョンストンの仕事にかなり近い模倣だと私的に見なしていたとされます。ギル自身もこの類似を認めつつ、自著『An Essay on Typography』では、自分の版のほうが扱いやすい改良版ではないかという趣旨を述べたと伝えられています。師の仕事を受け継ぎ、印刷機の上で使える形に鍛え直す。Gill Sansの設計とは、その翻訳の作業でした。
ファミリーはデジタル時代に大きく再編されます。2015年、Monotypeのジョージ・ライアンによってGill Sans Novaが発表され、Monotypeによればファミリーは18書体から43書体へ拡張されました。デジタル化されていなかったシャドウ付きの飾り書体や、一度ライブラリから姿を消していたDecoの復刻も含む、アーカイブの発掘を伴う改刻です。
どこで使われているか
Gill Sansの名を国民的な存在にしたのは鉄道でした。発表翌年の1929年、LNER(ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道)が全社の標準書体にGill Sansを採用し、機関車の銘板から駅の看板、時刻表、ポスターまでを統一します。LNERが1934年にMonotypeに印刷させた活字標準化の記録冊子は、いまも英国科学博物館グループの収蔵品として残っています。1948年に英国の鉄道が国有化されると、Gill Sansは英国国鉄の標準文字の基礎として引き継がれました。1935年からのペンギン・ブックスのペーパーバックの表紙や、英国陸地測量部の地図にも使われ、BBCは1997年から、すべてではないものの多くの用途で、ロゴを含むコーポレート書体としてGill Sansを採用しました。BBCのロゴは2021年にBBC専用書体のReithへ切り替わるまで、四半世紀近くGill Sansでした。
一方で、この書体には作者に由来する影があります。1989年に刊行されたフィオナ・マッカーシーの伝記により、ギルが日記に自らの娘たちへの性的虐待などを記していたことが公になりました。それ以降、ギルの彫刻作品の撤去を求める動きが繰り返し起こり、児童支援団体のSave the Childrenは2022年、Gill Sansを使っていたロゴからの移行を表明したと伝えられています。書体そのものに罪はない、という立場もあれば、団体の性格上、作者の名を冠した書体は使えない、という判断もある。Gill Sansを選ぶことは、いまやこの歴史を知ったうえでの選択でもあります。

